乱斗の隠れ家

てけとーにあれこれ自分語り

(いじめから)「逃げる」ことについて

イジメで学校に行きたくない人へ

「逃げても良いんだよ」と言われて逃げて、人生行き詰まったらどうする?(追記しました)

 

 前のブログで何回も書いたことではあるんだけど、消しちゃったのでもう一回。

 

 一つ目のエントリは、(ブコメにも書きましたし、他の人からも指摘入ってますけど)実際に「学校に行きたくない人」に限らず、そこに関わる可能性がある全ての人に読んで欲しいなと思ったんですよ。もしかしたら、増田もそのつもりで書いたんじゃないかなこれ、っていう。
 だってね、(これも他の人から指摘入ってますけど)子どもってそんな単純じゃないですよ。「お互い様」と言われたからって「あーそっかー」と腑に落ちるほど単純な悩み方はしてない。多分。
 「お互い様」って言葉が意味を持つのは、前もって心の交流がある関係性の中においてのみであって、こう言っちゃ悪いけど、誰かよくわからない匿名の人に言われたところで、悩みの真っ只中にいる子の心に刺さるほど便利な言葉ではないです。
 じゃあ一つ目のエントリに意味はないのか、って言われたら、そんなことはないと思う。その状況にいる子が自分で「逃げ」を選べなかったとしても、周りの大人が逃げ道を作ることはできる。逃がすだけじゃなくて、状況に手を加えることもできる。そして、そのためには「そういう子がいる」ということを頭に置いておかなくてはいけない。
 世界はいつだって泣いてる子どもで溢れ返ってて、しかも大人は日常の中でそのことをつい忘れてしまうものだから、そういう子がいるということを、何度だって思い出さなきゃいけない。それを思い出すための、自分に何ができるのかを考えるための切っ掛けとして、こういった話は定期的に繰り返される必要があると「おれは」思います。たとえ「その話題何週目だよ」って言われたとしても。

 

 で、二つ目のエントリ。
 「逃げ」を推奨するなら、そのデメリットも伝えろ、ってのはわかるんですよ。都合のいいことばっか言ってんじゃねぇよ、って。それってずるくねぇか、って言われるのはわかる。
 ただ、その言い方自体が都合いいな、とも思う。
 だって、逃げずに耐えて踏ん張ってる子なら、デメリットなんかいくらでも考えてるでしょう(実際に妥当なものかどうか、取りこぼしがないかどうかは別として)。良くも悪くも、人は自分の行動を正当化しようとする生き物だから、「逃げない」という選択……あるいは妥協の継続を正当化するために、使える理屈は何だって使うに決まってる。
 そういった子に手を伸ばそうとするなら、「逃げないための理由」から、一旦目をそらさせる必要があるんじゃないですかね。「これこれこういうことがあるから私は逃げない」ってところに立ってる子に、「こんなデメリットもあるけど、メリットの方が大きいから逃げないか」つったって、首を縦に振るわけがないんだから。そんな言い方で納得するのは、理屈を大事にして、自分で価値を判断できる人だけですよ。大人の理屈と言ってもいい。
 子どもの側は、必死で大人の理屈に合わせようと頑張ってる。少なくとも、逃げずに耐えようとしてる子なら。そこに大人の理屈をぶつけたって、絶望が深まるだけで救いはないです。実際に逃げるかどうか、強制的に逃がすかどうかは、個別具体的に判断されるのが望ましいと思うけども、子どもの視野に「逃げる」という選択肢を提供しようとするなら、いちいちデメリットなんて挙げるもんじゃないです。
 元増田は多分、子どもを騙そうとしてデメリットを隠したんじゃない。そんな、不確定な未来の不安を言ってもしょうがないから、害の方が大きいから、敢えて多くを書かなかったんだろうと思う。

 

 おれは幸いにして、自殺を考えるほどの非道いいじめに遭ったことはないんですが、子どもの頃から逃げ癖がひどい、言ってしまえば駄目なやつでして。んでもって、自分のことがあんま好きではないもんだから、いざ目の前に逃げようとしてる子がいたら、逃げることのデメリットも懇々と語っちゃうような気がします。「お前はおれみたいになるなよ」つって。(いや、実際はケースバイケースなんですけど)
 んー……この文章を読んでもらってもわかるだろう通り、おれは慎重に言葉を取捨選択するよりも、多く言葉を重ねる方法を好むので、いざ「逃げ」を提示するにあたってもなお、「デメリットよりもメリットの方が大きいと思うよ」って言い方をしてしまうことが多い。それで失敗したことも数知れずなんで、あんま良くないよなぁこれ、とは思ってるんですが。

 

 一般的に言って、逃げることのデメリットってやっぱり、「その時点で得られるだろうものを得られなくなること」に尽きると思うんですよ。もちろん、その損失自体は後々埋めることができるものなんですが、有限であるところの人生の時間を余分に使わされる、ってことには変わりなくて。相対的に他の人よりハンデを背負ってしまうのはしょうがない。
 それをして、差は広がるばかりだ、って見方もあるだろうと思う。どこに行ったって椅子取りゲームは避けられないから、望む席に座れず気がつけば椅子が全部埋まってた、とかザラではある。んで、それは、おれが被ってきたところの損失でもある。
 冒頭二つ目の増田が「行き詰まる」と表現したのは、つまりそういうことなんだろうと思う。逃げることによる損失、その結果狭められる選択肢。そういったところを無視して、無責任に逃げを甘美なものとして見せるな、って感じかな。
 ただ、それって周りを意識しすぎじゃねぇの、とも思う。競争に忠実すぎるというか。

 

 本当はいじめに限定すべきではないんだけど、わかりやすくするために限定すると。
 こういうこと言うのってあんま良くない……つか明確に悪いけども、いじめられる側の子にだって「問題」はあるじゃないですか。その子が良いとか悪いとかって話じゃないですよ。いじめは確実に、いじめる方が悪い、って前提の上で。その……与えられた環境に適応しきれないとか、いじめを深刻化させないための高度な(高度な!)立ち回りができないとか、そういう問題が、深刻ないじめを受ける側にはあるわけじゃないですか。
 それは、必ずしも当人の問題とは限らない。というか、環境に由来する問題であることがほとんどだと言っていいと思う。あるいは、当人に問題があったとしても、相性問題というか、いじめる側との相性が致命的に悪かったがために深刻化してしまったケースとか。
 いずれにせよ、周りの大人のフォローが行き届かなかったってことに変わりはありません。だったら、そこは周りの大人がフォローしていくしかない。問題に手を伸ばしていくしかない。
(教育現場の人手が足りないらしい現状は、そういった面でも致命的ってことになります。人間の各種リソースだって有限なんで、人手にゆとりがないと、イレギュラー対応はどんどん機能しなくなっていく)

 

 「学校に行きたくない」って段階は、当該児童のその後を考えるなら、まさに正念場で。自殺を考えさせるまでに追い込むのか。自殺までいかなくとも、社会適応に関して深刻なハンデを背負わせるのか。あるいは、環境の変化を促し状況の改善を期待するのか。それを選べる、最後の段階と言っていいかもしれないぐらいに重要なわけです。
 事ここに至って何もしないのは、最悪の一つじゃないかなと思う。「逃げたらこんなデメリットがあるぞ」つって追い込んで、「じゃあ逃げない」って言わせて満足するのは最低ですよ。「逃げない」と言ったって、既に「学校に行きたくない」ぐらいに追い込まれてるわけでしょう。そこでなお、状況の改善を当人の努力だけに期待するのは、愚の骨頂です。早晩潰れてしまうのは目に見えてるんだから。
 人間って意外と、自分の意思だけで自分を変えるのは難しいというか、そんなことはほぼ不可能なんで、まずは環境を変える必要があります。成長過程にある子どもならなおさら、変化ってのは環境に適応しようとした結果ついてくるもんなので。
 その、環境を変えるために取れる選択肢のひとつが「逃げる」ってことです。
 環境を変えるっていうと真っ先に転校が思い浮かぶかもしれませんが、そこまで大きな変化じゃなくてもいい。一人、信頼できる大人がフォローを入れてくれるだけで状況が劇的に改善する、なんてことは珍しくない。傍目には大きな変化でなくとも、当人にとっては大きな変化だったりしますし。

 

 損失は、既に発生してるんですよ。「学校に行きたくない」って思った時点で、当人の中では既に、世界への不信が生まれてる。そこを無視して、逃げのデメリットを宣告するのは、上策とはとても思えません。
 まずやるべきことは、世界への信頼を少しでも取り戻すこと。そのためには、多くの選択肢を用意すること。物理的・心理的を問わず、障害を解きほぐすこと。「私は、あなたのことを見ています。あなたを大事に思っています」と、態度で示し続けること。
(ただ一人、そういう人が身近にいる、というだけのことが、当人にとってどれほど心強いことか)
 未来のことは誰もわからないから、まずは「今」「ここ」に手を伸ばすしかないんです。競争を意識するのは、その後だっていい、と「おれは」思う。そのままだと、競争に参加することさえできなくなるかもしれないんだから。平行して考えていくことだってできるんだから。

 


 

  • あとがき

 

 何がどうなったって、どこに行ったって、生きていくことはできます。

 

 逃げて逃げて、社会からドロップアウトして、レールというレールのいずれからも転落して、一時はホームレスにまで落ちたおれでも、今こうして、なんとか生きてますので。……それはまぁ、おれの力ってわけじゃなくて、人様のおかげってことにしかならないんですが。
 だからこそ、かな。冒頭一つ目の増田において

 「困ったときに人に相談できる」という「テクニック」は生涯において役に立ちます。

と書かれていたのは、すごく印象的でした。
 あんまり人にべったりも良くないですが、そのあたりの加減は場数で掴むしかないとして。何はなくとも「人様を頼る」という選択肢を頭に入れておくことは、生きていくための大きな力になります。おれはそれを、身をもって知っています。

 

 一度逃げたからといって、人生が終わったりはしません。逃げた先にも道は続くし、そこでもやっぱり、何がしかの戦いを要求されるもんです。
 ただ、少なくとも「今の絶望」に別れを告げることはできるし、その別れを自分で選べたのであれば、「新しい道を自分で勝ち取った」と考えていいのだと思います。