乱斗の隠れ家

てけとーにあれこれ自分語り

感傷的に「尾崎豊」の名を思う

「盗んだバイクで走り出す」に熱狂していた若者
https://anond.hatelabo.jp/20190211125224

 読んだ。
 ブコメも含め、どうやら自分のコアに近い部分を刺激されたようなので、思ったことをつらつらと書く。まとまりのない自分語り。

 


 

 尾崎豊が熱狂をもって一部の若者に受け入れられ始めた頃、まだ鼻垂れ小僧だった俺は、友人の兄やらそのまた友人の不良少年やらを通じて聴かされた氏の楽曲に、取り立てて何かを感じるということはなかったような気がします。というか、氏の楽曲から何かを受け取るには、当時の俺はいかにも幼すぎた。
 氏の楽曲に対する俺の意識が変わったのは数年後。若くしてこの世を去った彼が、ある種の「神話」として語られ、やがて日常からその存在感を失い始めた頃のことです。バブルが弾け、ヤンキー・カルチャーも一時の勢いを失い、「荒れている」と言われていた学校も落ち着きを取り戻し始めた、そんな時期に俺は、初めて能動的に、氏の楽曲を聴きました。
 あの体験を今、どう表現すればいいのかな……。正体のわからない焦燥感、ただ学生を生きることへの懊悩、そういった息苦しさに抗う心をしばし忘れ、自己憐憫に浸ることを許されたかのような鑑賞体験でした。喩えるならそれは、時間も己の輪郭も忘れ、程ぬるい湯船に揺蕩う入浴時のような、気怠い心地良さ。
 思えば氏の歌詞は、楽曲は、思春期の少年特有の青臭い鬱屈に対し、何を説くでもなく、ただ近くに添うてくれていたのでしょう。

 

 氏の楽曲に惹きつけられた、少なからざる少年がそうであったように、俺もまた、社会にうまく馴染めない内の一人でした。とはいえ俺は、俗に言う「真面目系クズ」の典型みたいな子どもだったし、わかりやすくグレてみたりすることもなかったんですが。
 関西の片田舎に住んでいた当時の、俺から見た「学校」というものは、概ね平穏と言って差し支えなかったように思います。ただ、「ヤンキー」に対する憧れも一部、根強く残っていました。不良少年を描いた漫画が一定の人気を誇っていたのも、当時の「学校」に漂っていた空気に裏付けられてのものでしょう。
 バイクを盗むことはないけど、体育館の裏で隠れて煙草を吸ってみたりする。窓ガラスを壊してまわることはないけど、夜の街でたむろしてみたりする。そんな不良少年が、各クラスに大体……一割ぐらい?居たように記憶しています。
 そういった時代の中で、彼らと不即不離の関係にあった俺は、尾崎豊の楽曲ともまた親和性が高かった、ということになるのかもしれません。

 

 ここまで書いておいてなんですが、尾崎豊という歌手そのものに対して俺は、さほどの思い入れを持っていません。あくまで、自分が生きた一つの時代を彩る、一つのピースとして記憶の中に留め置かれているに過ぎません。氏の楽曲を積極的に聴こうと思ったことも、もはや十年以上ありません。
 ただ、彼が持て囃された一つの「時代」に対しては、未だに整理のつかない思いを多く抱えています。

 

 当時、俺と交流をもっていた内の、決して少なくない不良少年が、尾崎豊の楽曲を好んで聴いていました。俺よりいくらか年長の、まさしく「リアルタイム世代」と呼ばれるだろう世代の愛聴者にも、不良少年は少なくなかった。
 そして、おそらくはどの時代でもそうであるように、彼らの内の何人かは、限度を超えた「ヤンチャ」に及んだりもした。

 

 俺は今でも、自分と彼らとの間に大した違いがあったとは、どうしても思えないのです。
 確かに「一線」はあったのかもしれない。彼らはその一線を越え、俺はどうやら越えなかった。でも、ただそれだけの事実でもって、俺がこれからも「一線を越えない」側の人間であるとは信じることができない。
 互いに少なくない言葉を交わし、時に分かり合えたような錯覚を得て、それでも道が分かたれてしまったことの意味を、俺は未だに整理しきれずにいます。

 

 尾崎豊の名前を、氏の楽曲を思う時、俺の胸によぎるのは常に、彼らの笑顔であり、声なき想いであり、言葉なき別れなのです。

 


 

  • あとがき

 

 Twitterにもあれこれ書きましたが、あの「時代」って結局何だったのかな、というようなことを普段、俺はよく考えています。
 色々な作品を目にし、幾人かの話を聞かせてもらってなお、その思いはいや増すばかりで、きっと、そこに自分なりの答えを出すために俺は文章を書いているのだろうと思います。

 

 バカッター再来などと騒がれるこの頃ですが、形のない「一線」に無理矢理形を与えることのないよう、わかりやすい「正義」に縋ることのないよう自覚しつつ、じっくり「社会」と向き合っていければなぁ、などと考えています。