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乱斗の隠れ家

てけとーにあれこれ自分語り

「道徳」について思うこと

「道徳」教科書の初検定 8社すべてが一部修正し合格 | NHKニュース

パン屋「郷土愛不足」で和菓子屋に 道徳の教科書検定:朝日新聞デジタル

 

 Twitter大喜利のネタになってたりするこの話題ですが、挙げられてる修正箇所がそれぐらいセンセーショナルかつナンセンスってことで、まぁ「そびえ立つクソ」であることについては疑う余地もないかな、と。
 ブコメでは当該検定の問題点に留まらず、教科書検定制度そのものの問題点とか色々突っ込まれてるんですが。そういった難しいことはよくわかりませんし、あんまり深く突っ込んでも馬鹿を晒すだけなんで、今回そこらへんには触れないでおきます。
 冒頭のエントリを読んでまず思ったのは「馬鹿じゃねーの」で、それから、小学生の頃に受けた『道徳』の授業について色々と思い出したりしてました。つっても20年以上前のことなんで、覚えてることの方が少なかったりもするんですが。

 

 おれは多分、俗に言う「真面目系クズ」ってやつの典型で、三つ子の魂百までじゃないですが、割と小さい頃から「表向きは真面目だけど性根がクズ」っていう面倒くさい性質を備えてたように思います。頭でっかちと言い換えてもいいのかな。要は、わかってるけどわかってないというか。諸々の倫理とか観念とかを、理屈としては理解してるけど、自分のものとして捉えることができてなかったというか。
 ここらへん、深く突っ込むとまったく別の領域に脱線してしまうので、さっさと切り上げますが。頭と心の不一致が著しかったおれにとって、倫理ってのは頭に叩き込むものであって、あるいは表面的に好印象を与えるための受け答えに使うものであって、自らの振る舞いを規定するためのものではなかった、ってことです。
 そういう子どもにとって……っていうと主語がデカいのかな。まぁ、おれにとって、ってことにしときます。当時のおれにとって、『道徳』という教科はどういう意味を持っていたのか。

 一言で言うと、「再確認」ってことになります。

 おれは――こういうことを自分で言っちゃうのもどうかと思うんですが――教科としての『道徳』は結構得意だったように記憶していて、実際どこまでできてたかはもはや確認のしようが無いんですが、その場においての「担任(ないし一般的な大人)に好まれそうな模範解答」を瞬時にひねり出せるぐらいには、「道徳」ってもんが頭に叩き込まれている子どもでした。
 ただ、それはもちろん『道徳』の授業から学んだものではなく、他の大人に懇々と言い聞かせられたり、あるいは拳骨で身体に覚えさせられたりしたものでした。そうして覚えたことを、既に知っていることを、その場に応じて再構築して、相手の気に入るように受け答えする。おれにとって『道徳』の授業は、そういう……試運転の場でしかありませんでした。
 小学校の6年間――って学校にすら行ってなかった時期もありますが――『道徳』の授業を受け続けて学んだことってのは、思い返す限り、ほとんどないです。……とか言い切っちゃうと色々問題がありそうにも思うんですが、実際そうなんだからしょうがない。少なくともおれにとって、意識できる、言語化できる倫理規範のほとんどは、『道徳』の授業から学んだものではありません。

 

 で、そんだけ倫理規範が頭に入ってりゃ、言動もさぞ立派だったんでしょうよ、って話になってもおかしくないと思うんですが。先にも書いた通り、当時のおれの、実際の振る舞いはクズそのものでした。
 あんま具体的に書くのもアレなんで、てけとーにボカして書きますけど、宿題とか一切やらない、常習的に嘘をつく、約束は守らない、協調が必要な場面においてさえ単独で行動する、とかとか。……ボカして書いても十分にクズだなこれ。
 「道徳」はあくまで知識でしかない、という感じ方・考え方を見事に体現したような子どもだったように思います。

 

 今のおれは、さすがにそこまでクズではないと思うんですが。ちょっと自信がないなりに、自分自身についてそこまで思えるようになったのは、「道徳」ってもんをいちいち解体して、噛み砕いて、自分が納得できる形で、自分の中に再構築したからだと思ってます。……って、過去形にする話でもないなこれ。今も継続中の作業だったりするし。
 んで、それはおれにとって、どうも一人で成し遂げられる作業ではなかったらしい。
 当たり前っちゃ当たり前の話です。「道徳」、つまり倫理が社会や文化によって規定されるものである以上、そして社会がどこまで行っても数多の個人の集合体である以上、人が自分の中に「道徳」を構築するためには、数多くの他者と何かしらの交流を持つ必要があるだろう、って話で。

 

 「道徳」なんていう曖昧でふわふわしたものは一体何のためにあるかっていうと、言うまでもなく「この社会で、他者とそれなりにうまくやりつつ、生きのびていくため」でしょう。(そこに「考え、議論する」なんてもんが必要とは、おれには到底思えないんですが、それはそれとして)
 ならば、仮に「望ましい道徳教育」ってものがあるんだとしても、それは教科書の改訂やら成績評価やらでは決してないだろうと思う。
 この世界には良しも悪しも色々な人がいて、それらすべての人とうまくやっていくことは不可能だけど、それでも互いに致命的な摩擦が生じることを避けるために、社会のコードを身につけよう。それに沿って行動できるようにしよう。ってのが『道徳』という教科の目指すところだとして。
 じゃあ、子ども達はどうすればそれを身につけられるのかといえば、どうしたって他者との交流は避けられない。というか、最終的にはそこからしか学ぶことができない。

 

 『道徳』の教科書になどまったく意味は無い、とまで言い切るのは危ういし、おれはそこまで言うつもりはないです。実際、いくら他者との交流が必要だといったって、最低限のコードぐらいは知っていないと相手にすらされないわけで。その最低限を知らない子ども達がスタートラインに立つための手助けをする、ぐらいの意味はあるんだろうと想像します。
 ただ、「道徳」を知識としてしか捉えられないような、昔のおれみたいな子どもにとって、「教科書」や「座学」から得られるものはきっと、ほとんど無いんでしょう。
 だから、「より良い道徳教育」とやらを目指したいのであれば、小1~2の『理科』と『社会』を廃して『生活』に置き換えた時のように、もっと違ったアプローチが必要になるんじゃないか。それが、この……変化した社会だったり時代だったりの要請なんじゃないか。などと考えたりしました。
(っていうか実際、「地域社会との交流」が要領に含まれてる時点で、『生活』の方が『道徳』よりよっぽど「道徳」っぽいんじゃねーの、とか)

 


 

  • あとがき

 

 育児論みたいになりそうだったので本文では端折りましたが、「道徳」の根幹を成すと思われる「察しと思いやり」の感覚って、なかなかどうして気付いてもらうのが難しいというか、外から「与える」ことができないもんです。
 たとえば……「世界に自分しかいない」類の子ども達にとっては、「他人の気持ちを思いやれ」とか言われたところで、その基本となるところの「他者」が自分の中に無かったりして、無理難題どころか「何を言ってるんだろう、この人は」ってなったりします。もっとひどいと、表面的にはわかったふりをして、外側もわかっているのだろうと思い込んで(何なら本人だってわかっていると思い込んで)、それゆえに問題が泥沼化したりします。

 

 このあたり、ぶっちゃけ今でも苦手な分野なので偉そうなことは言えないんですが。
 下手に「あれは正しいこれは間違ってる」って教えられるよりも、ただひとつ受け容れられる場所がある方が、「道徳」とやらには良い影響を及ぼすんじゃねーかな、とか。それがいずれ、他人とぼちぼちやってくための処世を身につけることに繋がるんじゃねーかな、とか。
 おれはちょくちょく、そんなことを考えたりしています。