乱斗の隠れ家

てけとーにあれこれ自分語り

「環境が子どもを規定する」ということ

おりに入れられ…中国人孤児たちの総合格闘技クラブ、動画拡散で波紋 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

【追記あり】『普通の大人』になるので精一杯だった。

 読んだ。

 それぞれのエントリについて具体的な感想を述べるのは難しい。1つ目の記事を読んでからもう1週間近く経っているが、未だに考えがまとまらない。なので、取っ散らかった文章になるだろうと思う。

 

 1つ目の記事を読んで真っ先に連想したのは、過去に関わりを持った児童養護施設のことだった。もう20年近く前のことになる。
 今はどうかわからないが、当時はまだまだ施設というもの、ひいては入所児童に対する偏見が根強く残っている時代だった。「可哀想な子」といったものならまだいい。おれも当時「可哀想」と思っている部分がなかったわけではないし、他人のことは言えない*1
 問題児扱いは日常茶飯事*2。直接見たわけではないが、2つ目のエントリに挙げられているような「あの子には近づいちゃいけません」なんてベタなものもあった。非道いものになると「ヨウゴ*3」などと揶揄されいじめられることもあったという。
 それゆえ入所児童はおよそ、自分が施設にいることを、外ではひた隠しにしながら生活していたと記憶している*4。……そして、隠してもなお発覚し*5、不遇に遭う児童がいたことも。
 それでも彼らは、おれから見える分には「最悪」ではなかった。学校で非道い扱いを受けることがあっても、互いにその傷を(露骨ではないにせよ、同じ時間を共有することで)慰め合うことができているように見えた。「普通」を渇望してやまず、口々に「早くここを出たい」と言い、それでも彼らは確かに、彼らを損なおうとする多くのものから保護されていた。……冒頭に示した2つ目のエントリを踏まえて考えると、その場所は施設の中でも(当時としては)割と良い環境だったのかも知れない。

 

 冒頭1つ目のエントリを読んで、その施設のことを思い出した。何というか、「似ている」と思った。
 中国の内情についてはとんと疎いのだが、およそ一般的であろう家庭という環境を失い、福祉に掬い上げられることもなく、選択肢を奪われ、自活するための力も無い中で、一つ目的のために身を寄せ合う子ども達という構図が、おれには施設に入所していた児童らと重なって見えた*6。そして、こう思った。

 今この場所を取り上げられたら、この子らはどうなってしまうのだろう。

 その格闘技クラブの存在を手放しで肯定する意図は無い。環境として劣悪とまでは言えないにせよ、未発達の肉体に対して与えられる負荷が彼らの将来にどのような影響を及ぼすかを考えれば、現在の形のまま存在し続けて良い環境とは思えない。
 ただ、当該クラブが「今」「そこ」に現実として存在している子ども達を掬い上げているのも事実なのだ*7。それを、およそ食うに困ったことも無いだろうこの国の人間が、およそ世界で合意が取れているだろうというだけの倫理で、子ども達から取り上げようとするのはどうなのだろう。
 「孤児を掬い上げるべきは福祉であり国家である」とか、綺麗事だけのコメントが並んでいるのを見て、おれは正直「よく言うよ」と思った。この国の中でさえ、福祉に掬い上げられない子ども達は多く存在する。身近に居るはずの彼らも救えないような人間が、他の国に対して何を偉そうなことを言っているのだ、と。

 

 「環境が子どもを規定する」ということを、よく考えている。
 子どもは本来、自分の力で自分の人生を選べないものだと思う。生まれる場所によって、少なくともしばらくの方向性は決定づけられてしまう。貧困のある場所に生まれれば、貧しい生活を。暴力のある場所に生まれれば、殺伐とした生活を。そこまで大きな問題が無くとも、誰だって子どもの頃は大人の(あるいは社会の)理不尽に振り回されたりしながら成長してきたものじゃないかと想像する。そして子どもは、生まれる場所を選べない。
 人は誰しも、生まれもったものと同じぐらい、あるいはそれ以上に多くのものを、周囲の環境から受け取って成長していく。環境要因と言われるものによって、人の少なからざる部分ができている。常識や倫理といったものもそうで、あるいは広く文化資本と言ってもいいのかもしれないが、その大半は生まれ育った環境によって形作られていく。言い換えれば、子どもは環境によって「どうある(べき)か」を方向づけられている。選択肢を制限されている。
 子どもの精神は、環境に適応するようにできている。それが「普通」なのだと感じ、順応していく。適応しようとする基本的な指向によって、子ども自身の自由意志は疑わしいものとなる。他にも選択肢はある、ということにさえ気付けない子も少なくない。社会が彼らを掬い上げようとしたところで、その道が彼らの目に入らなければ、彼らにとってそれは無いのと同じだ。
 だから彼らを救うには第三者の介入が必要で、そういった意味では、先に挙げたような「綺麗事だけの」感覚も大事なのだろうと思う。ただ、実際の介入は様々な事情を勘案して行われるものだし、それを考えもせずに自分の常識を信じて疑わない態度は、控えめに言って危ういと思う。冒頭2つ目の増田に対し「努力不足だったんじゃないか」と言い放つ人の態度にも似て、傲慢だとさえ言えるかもしれない。

 

 現在の日本において、格闘技クラブへ売られる子どもはさすがに居ないだろうが、親によって倫理を損なわれ犯罪の道具として扱われる子どもは居る。孤児はおおむね児童福祉の網によって掬い上げられているだろうが、定期的に保護責任者遺棄致死のニュースを見る。生育環境による影響から、取り返しの付かない事件を起こす子どもも居る。
 「環境が子どもを規定する」というのなら、その環境を形作る一部としてのおれは、彼らのために一体何ができるのだろう。そんなことをよく考えている。

 


 

  • あとがき

 

 何のエントリに対してだったか、「彼らを救うのは福祉の役割で、誰彼構わず負担を押し付けようとするのは『みんなで仲良く不幸になりましょう』という呪詛に似ている」といったブコメを付けたことがあります。
 今でも基本的な部分においては、その考えに変化はありません。誰だって自分のことで手一杯になることはあるし、その中でどうにかやりくりして、余裕がある中で身近な人を大切にするぐらいしかできない。そういうものだと考えているからです。
 ただ、それでもなお、やっぱり子どものことに関しては、もっとみんな周囲の子ども達に意識を向けてあげて欲しい、と思ってしまいます。
 大人が大人であるためには、子どもの存在が必要です。ハタチになれば大人なんじゃない、子ども達のために何かを残してあげられるから大人なのだと思います。

 


*1:正直なところ、今でも「可哀想」と思ってしまう部分はある。

*2:実際「問題児」は少なくなかった。ヤンキー文化こそ衰退を始めている時期だったが、中学生にして飲酒・喫煙に手を染めている児童は多く、施設の内外を問わず暴力沙汰に至ることも珍しくはなかった。

*3:「頭がおかしい奴」といったニュアンスを持つ隠語。語弊を承知で言うと、「特別養護学級」のイメージが背景にあったのだろうと想像する。

*4:出所してもなお、自分が施設に入所していたことをひた隠しにする人は多い。

*5:一部の親御さんの醜聞好きは古今の東西を問わないのだろう。

*6:念のため付け加えておくと、日本の児童養護施設にいわゆる「孤児」は多くない。

*7:紹介動画の中で何度か「帰る」「送り返す」といった表現があることから、全ての子どもが孤児というわけでは無いのだろうし、あるいはいつ放り出されるかもわからない不安だらけの生活なのかもしれないが、中に居る限り衣食住が保障されるというだけでも人道的と考えることは可能だと思う。