乱斗の隠れ家

てけとーにあれこれ自分語り

腐とかBLとかポリコレとか

 いつだったか、「BLはポリコレに反している」といったような言説がTwitterのTLに流れてきて、それに対する反論やら何やらで観測範囲が埋め尽くされたことがあった。
 俺は物心ついた頃からの筋金入りのゲイで、それでいながら腐やBLの文化には馴染みが薄かったために、「勝手にすりゃいいんじゃないの」と冷めた目でその騒動を眺めていたのだが、発端となっただろう方の思考背景*1を読むと、話はそう単純でもないのかもしれないと思わせられた。
 まだ考えがまとまっているわけでもないが、騒動が落ち着いたであろうこのタイミングで一旦、俺自身の考えを整理しておこうとこの文章を書いている。

 

 こういうことを言うと喧嘩を売っているようだが、俺は個人的な心情として、ああいった腐やらBLやらの文化が好きではない。というより明確に嫌いだ*2。嫌いな理由を長々と語るのは本旨から外れるため、ここでは割愛するが、過去にゲイが受けてきた差別の文脈と無関係ではない、とだけ記しておく。
 ただ、好き嫌いと善悪は全く別のものである。俺は腐やBLを嫌っているが、だからといってそれらの文化を悪とは見なしていないし、ましてや俺の感覚が正しいとも思っていない。
 彼らは彼らの感じるままに彼ら自身のリビドーを表現するのが自然だろう、と俺は思っているし、あらゆる表現*3はそうあるべきだ、とも思う。

 

 かくいう俺も、拙作の中で男性同士の肉体関係を書いたりしている。それらは主題ではなく、あくまで構成要素の一つという位置付けだが、想定読者の一部として「男性同性愛を好む人々」を置いていることには変わりない。
 とはいえ、ゲイの中にもそのような表現を好まない人はいる。当事者の方には言うまでもないことだが、性的な好みやその熱量は人によって大きく異なる。
 かなり前の話になるが、『群青ロック』を公開してしばらく後、ゲイの読者の方から「男性同士の肉体関係を描写する必要はあったのか」という意見を頂いたことがある。当時の俺がどう答えたかは覚えていないが、強い衝撃を受けたことだけは覚えている。3年以上の月日が経った今でも覚えているぐらいだから、相当強い衝撃だったのだと思う。
 同作の中では、男女間の肉体関係も書いている。作品全体を貫く主題として「恋愛*4」を置いていたため、それらを避けて通るのは難しかった。男女間のそれを書くのなら、同性間のそれも書かなければ片手落ちだろう、という感覚があった。
 もし作中で男性同士の関係を書いていなかったとしたら――。男女間のそれは許容され、しかし同性間のそれは許容されない、という作品世界がそこに出現することとなる。あるいはどちらの存在も許容されないか。少なくとも前者は、ゲイであることを公言している俺が表現していい世界ではないだろう、と思う。*5

 

 俺は「文章書き」と自認しているので、表現が人間に、ひいては世界に与える影響を、少なく見積もるつもりはない。
 身近なものとして想像することはできないが、BL作品を読んで育つゲイは確かに存在するのだろう。BLの影響を受け、その価値観を強く内面化し、自らのセクシャリティをも規定してしまう――といった発達段階を俺は想像できないが、そのような当事者も現代に存在するかもしれない。
 自らの経験ゆえの問題意識を表明し、件の騒動を巻き起こした方を、俺は好悪なく受け止めているつもりだ。*6
 ただ、その構造を変えたいがために何らかの表現を制限しようとする動きには、はっきりNOを突き付けていきたいと思う。そのような動きがエスカレートし、行き着くところまで行った後には、きっと当事者向けの表現さえ残されないだろう、と恐れているからだ。そうなれば、年若い当事者が自らの性に関する知識を得ることはより困難となるだろう。
 多感な時期にBL作品で己を規定するような、窮屈な発達を強いられるゲイが居たとして、彼らを掬い上げられるのは広範な性知識の提示に他ならない。そして、その役割をBLにのみ負わせようというのはいかにも酷だし、手段として適切とも思えない。
 彼らの為に声を上げるなら、何かを制限するためではなく、何をも制限させないための声であって欲しいと思う。何かを制限するための声は時に、己の在り方もまた制限されうるものなのだ、と感じさせてしまうものだから。…綺麗事だという自覚はあるが、俺は可能な限りそうありたいと思う。

 

 ポリティカル・コレクトネスが世界を作り替えていく様を眺めながら時折、その「正しさ」は何のための正しさだろうか、と考える。それは本来、「人によって違う」という当たり前の事実を、互いに好悪なく受け入れられる世の中を目指すための、対症療法的な是正策ではなかったろうか。
 どのようなかたちに生まれついたとしても、ただそれだけでは存在を否定されないように、過去多くの人たちが戦い、数々の権利を勝ち取ってきた。その歴史の上にあるのが、現在のポリティカル・コレクトネスなのだろう、と俺は理解している。
 幸いにして、今この国には(住んでいる地域にも大きく左右されるだろうが)ゲイというだけで生存を脅かされるほどの迫害は少ない。未だ偏見はあり、息苦しさを覚える当事者も少なくはないだろうが、当事者同士で交流を得るための方法は多く存在している。
 BLを好む、腐と呼ばれる人たちも、己の在り方を曲げずに存在できる世界であって欲しい、と俺は思う。これからも衝突することはあるだろうが、互いに譲歩できる場所を探っていければいい、と思う。

 


 

  • あとがき

 

 多様性について語られる時、しばしば「ありのまま」という表現が使われます。差別や偏見によって、その人がありのままに生きる権利を阻害しない社会を、と。
 当然ながら「ありのまま」なんて無限に認めることはできなくて、実際は皆互いに少しずつ我慢することで、多様性ってものの幅が広がっているのが現状だと思うんですが。
 じゃあBLは、腐は「ありのまま」でなくてもいいのだろうか?というのが、冒頭の騒動を見た時に俺が抱いた疑問の一つでした。

 

 少なくとも俺は、「ゲイ」としての権利の為に「腐」の権利を制限したいとは思えません。本文にも書いた通り、俺にとってBLは馴染みのない文化ではありますが、だからといってそこに何かの制限を加えようとすれば、いずれその矛先が自らに向けられる恐怖を感じずにおれないのです。
 …ポリティカリーにコレクトでない文章ばかり書いている俺は、かの表現に注文をつける権利など元より持ち合わせていないだろう、と思ってしまう部分もあるのですが。

 


*1:https://twitter.com/hawk_v/status/1281156890378924032

*2:そもそも俺は、性的な表現自体それほど好きではない。

*3:差別表現など、他者の権利を大きく侵害するものは除く。

*4:「性愛」と呼ぶ方が妥当だったと今は考えている。

*5:ここでは性的な描写ばかりに言及しているが、全体としてそのような表現は僅かであり、書店の棚に並んでいてもおかしくない程度に抑えたつもりであることをここに付記しておく。作中で明確にそれとわかる描写をしているためR-18という扱いにしたが、俺としてはポルノをやっているつもりはない。こういう人間もいるのだ、というぐらいの感覚でいる。

*6:一連のツイートを見る限り、発端となった方は非常にバランスの取れた考え方を持っているのだろうと推察されるし、むしろ好ましいとさえ感じたのが正直なところ。